発展途上国の人々から感じた、日本人に欠如しているもの
僕はこの4年間の学生時代を通して
周りから見ても一番と言っていいほど東南アジアを周ってきた。
プログラムに参加したり、コンサルのプロジェクトで渡航したりと様々な形で途上国に足を運んできた。もちろん旅行でも。
インドネシア、タイ、マレーシア、バングラデシュ、ネパール、インド、など
中には経済発展が進んで途上国とは言えない国もあるけれど、これらの国で色々な人と話し色々なものを見てきた。
そこで、あることに気がついた。
例えば東南アジアの村を訪れた際に、ほとんどの日本人が口を揃えていう言葉があった。
「彼らは物質的に豊かとは言えないしお金もあるわけではない。でも、みんな楽しそうに毎日を過ごしていて、こんな僕たちに対しても素敵な笑顔でもてなしてくれた。彼らを勇気づけに来たのに逆に自分たちが元気づけられてしまった。みんな幸せそうに生きていた。」
思わず、”幸せとはなんだろう”と考えてしまった。
ここで一つの疑問が生まれてきた。
日本人がみんなこのような感情を抱くのはなぜだろう。何がそうさせているのだろう。
基本的に、この感覚は"ほとんどテクノロジーが普及していない村で過ごしている子供たち"と触れ合うことで抱くものなのかなと思います、
みんなとても笑顔なんです。すごく楽しそうに笑う。
そしてめちゃめちゃピュアで純粋。また日本人に対してすごくおもてなしをしてくれる。子供たちははしゃぎ回りそして夢を語る。
こんな姿を目にしたからこそ、僕らは彼らから何かを感じ取ったのでしょう。
そしてもう一つ重要なキーワードが
「物質的な豊かさがないのに」
日本人が皆口を揃えていうもう一つの言葉です。
つまり、"お金を含めた物質的な豊かさが満たされている=幸せ"という暗黙の前提が日本人にはどこかしらにあって、それが彼ら彼女らを見ているうちに、「その常識がどこかおかしいのではないか?」と心の中で疑問を持ち始めたのだろうと思います。
もちろん全ての日本人がそういうわけではないと思います。
- 喜び
- 笑顔
- 繋がり
- 支え合い
- 仲間
- 感謝
- 夢
しかし、少なくとも多くの日本人が上記のような「人間が古来当たり前のように持っていたはずの感覚」を失ってしまっている気がします。
僕らは子供の頃に抱いていた純粋な楽しさや喜びを、歳を重ねるにつれて失ってしまっている。
課題に追われ、締め切りに追われ、毎日の出社時間に追われ、何のために使うのかよくわからない給料を貯め
何か他の大切なものが世の中的に欠如してしまっている気がしてならないです。
決して、人それぞれの生き方を否定しているわけではないです。日本人の生きる上での「マインドセット」がちょっとこのままだとやばいんじゃないの?と言っています。そろそろ時代に合わせてアップデートしていかなくてはならないのではないかなと。
好きを仕事にするということ
かつてこのブログで
「これからは好きなことを仕事にできる人がより豊かになる時代になる」
と複数の著名人が書籍やツイッター等で発信していたことをご紹介しました。
『お金2.0 新しい経済のルールと生き方』 - 佐藤航陽
『日本再興戦略』 - 落合陽一
『最強の生産性革命 時代遅れのルールに縛られない38の教訓』 - ムーギー・キム
『「自分」を仕事にする生き方』 - はあちゅう
など。
けんすうさんも御自身のプレゼンテーションで
「遊び半分でできることを仕事にするのがいいよね」とおっしゃっています。
また、他の主なインフルエンサーとしては
ゆうこすさん / 箕輪さん /イケダハヤトさん
などが挙げられると思いますが、
ゆうこすプレゼンツの
「やりたい事をやって生きたいの」
— 菅本裕子♡ゆうこす (@yukos_kawaii) 2018年1月16日
ツイートをまとめました。
芸能という世界で、一緒に戦いたい女の子、募集します。
詳細は少々お待ちください!
今週中に発表します。
https://t.co/fiRxaU0A6B
とかはまさに!て感じですよね。
もう、いろんな業界のいろんな人が、「好きなことを仕事にする時代が来た」って言いまくっています。
で、そうなると沢山の人が「サラリーマンなんてバカバカしい!私もあの人たちみたいに好きなことをしてお金を稼ぎたい!!」と思うようになるわけです。
ですが、実際に行動している人はごく一部であり、かつその実現は思っている以上に険しいためにやる前に挫折してしまう人が大半だと思います。
どういうことかというと、好きなことを仕事にする際は大きく分けて
1. 自分の好きなことをSNSで不特定多数の人に 発信し続けていたら、気がついたら好きが仕事になっている
2. 自分がやりたいこと、好きなことに関することで何か新しいサービスやアプリを開発し起業する
この2つのどちらか、またはどちらも行っていくことで基本的には実現されるものだと思います。
しかし、ここですぐに大抵の人にとってとてつもなく大きな壁が立ちはだかります
1.1 発信し続けられるほど好きなことがない
2.2 そもそもアイデアがない。そして何かしらのサービスやアプリを開発する技術もない
という訳で、殆どの人は「好きを仕事にしたい!」を夢のまま終わらせてしまいます。
で、そうなった時に、今後多くの人が「好きなこと病」にかかっていってしまうのではないかと勝手に危惧しています。(お前も少しなってるだろ!というのは実際当たってる気もするので心の底で思っていてもらえると嬉しいです)
つまり、何かと言うと
「好きなことを仕事にして、ストレスのあまりない豊かな人生を送る」ことが目的なのに、「好きなことを見つけること」が目的になってしまい延々と好きなことを探しにいく謎の旅(ひたすら考え迷走する)を続けてしまうこと
好きなことを仕事にするのは、「自分はこれが好きだ!」と多少なりとも思ったものを少しづつ少しづつ形にしていくことでしかなし得ないものなのは自明です。
にも関わらず、あーだこーだ言って、「いや、実際そんなに好きでもないな」と自分に言い聞かせてしまうのが人間。
でもやっぱり一歩一歩行動に移していかないと何も現実は変わらないですよね。
箕輪さんが
話題の死ぬこと以外はかすり傷はこちらから。 https://t.co/fdr6JmB50j?amp=1
— 箕輪2.0 (@minowanowa) 2018年2月12日
「死ぬこと以外はかすり傷」とおっしゃっています。(なぜか炎上してますが)
僕は、この箕輪さんの考えすごく好きです。
そしてこの前、寝る前に
「人生においては、失うものなんて何もない。失うものがあるとすればやりたいことに挑戦しないことによるあなたの人生だ。」
なんて名言っぽいことを思いついたので最後に勝手にシェアさせていただきます。
好きなこともないし、技術もない、でもやってみないと何も変わりません。逆にやってみると何かが変わると思います。それがプラスかマイナスかは自分自身の努力に依拠するものかとは思いますが、少なくとも、何かは変わる。その変化を楽しめるともっと楽しいですよね
僕自身も何が正解かはよくわからないですが、やっぱり日々色々な事に触れて考えて、そして少しづつ行動に移していくことを繰り返すことしかないなと痛感しています。
一人でも多くの人が何かしら小さなチャレンジをしてくれたら嬉しいなと思います。
また最近は、何か些細なことでも全然いい、チャレンジする人をお互いに支え励まし合う、そんなちょっぴり暖かいコミュニティーなんかが作れたらいいななんて思ってます。(興味ある人がいれば一緒に何かプロジェクトでもやりたいです)
今回も読んでいただきありがとうございました。
また、更新します!
パブロ・ピカソから読み解く “面白さ”のタネ
今回は、
ピカソを題材として最近考えたことを少しご紹介できたらと思います。
が、まずは始めに、西洋美術史の変遷についてざっくり概要を追っていきたいと思います。
14世紀以降のルネサンス期から見ていきたいところですが量が膨大になってしまうので今回は近代である19世紀からご紹介させていただきます。
近代西洋美術史において
19世紀は、写実主義(=現実をありのままに描く)が当時のメインストリームでした。
農民や労働者の姿をありのまま描いたものが多く残されています。
現実を尊重し、主観による改変や装飾を排して客観的に観察し、その個性的特質をありのままに描き出すことに重きが置かれていました。かなり合理主義的な印象を受けます。
例えば、
↑こちらのミレの作品や
こちらのクルーベの『オルナンの埋葬』などがあります。
が、現実を表すだけではどことなく暗く寂しいものが出来上がってしまうため、「もう少し希望やロマンを持った絵画を描こうじゃないか」ということで、かの有名な印象派の画家たちが台頭していきました。
例えば、モネが描いた有名な
↑『日の出』や
『日傘をさす女』などが挙げられます。どれも光の面にフォーカスして日常を輝かしく描いている様子が見て取れます。
しかし、そんな中で、これら写実主義印象派を継承しつつもそれらとは異なる立場のポスト印象派の画家たちが台頭していきます。彼らは、写実主義では描ききれない人間の内面や感情を織り交ぜて絵画として表現していきました。
セザンヌの『台所のテーブル』や
ゴッホの『星月夜』など
名だたる巨匠がその時代の画家として当てはまります。
そして20世紀に入ると、今回のメインテーマである
ピカソというと
『泣く女』や『ゲルニカ』など、多くの代表作が挙げられますが
少し立ち止まってみると、今まで見てきた写実主義とは打って変わった、全く異なった様相を呈しています。
これらの絵画に特徴しているのが、"キュビズム"と呼ばれる主義です。
wikipediaによると
"それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。"
と書かれており、
要するに、今までの、一点から見える景色をそのまま描き出していたものを否定し、多角的に対象物を観察しそれを一つの絵画に表現する技法が台頭した。ということです。
キュビズムという名前は、多角的な視点で同一物を捉えるという意味からも推測できる通り、キュービック(正六面体、立方体)から由来したのではないかと考えています。
ここでもう少しキュビズムに代表される絵画を見ていきたと思います
複数の絵画をご覧になってどうでしたか?
よくわからないが、面白い。なぜか飽きない。
なあという気がしませんか?(僕だけかもしれませんが。)
現在でも"画家といえば?"という問いに真っ先に浮かぶ人の一人としてピカソが確実に名を挙げていることや、実際にキュビズムが”現代美術の礎を築いた”と言われていることからも、その人気っぷりがわかると思います。
めちゃめちゃ普通のことですが、やっぱり
物事を色んな角度から捉えていることって、かなり面白いことなんだと思います。
その人にしか書けない、すごく独創的なもの。
もちろん写実主義的な、ありのままを描いた手法が飽きるということではありません。が、現在においては写真や動画が一般的に普及したことによって、その技法自体に対する希少性はかなり薄れてきているはずです。
同じものを多角的に見ると全く違うものに見えることはよくあることだと思います。そしてそれが何故か面白い。
絵画だけではなく、生き方そのもの、そしてビジネスなどあらゆるものに共通している普遍的な事実なのではないかなと思っています。
かつて、フランスの哲学者であるマルセル・プルーストがこのような言葉を残しています。
「本当の発見の旅とは、新しい土地を探すことではなく新しい目で見ることだ。」
と。僕自身もまさにそのように思います。(僕の大好きな言葉の一つです)
みなさんも、自分のことや周りのこと、ビジネスのことなどを考えるときに同じ事象に関して違った視点から見て見ることを心がけて見るとまた新しい面白い発見に出会えるかもしれませんね。
今回は以上になります。
読んでいただきありがとうございました!
そもそもなぜ僕が発信をするようになったのか
2017年の後半から、facebook上でちょこちょこと意見を発信するようになり、ブログも(まだ投稿数が少ないですが)更新するようになってきました。
今までは何も発信することなくオブザーバー的にSNSを利用していましたが、就職活動なども通して少し自分の人生について考えるきっかけが出てきてから、少しづつ自分の意見を文章にして発信することを心がけてきました。
そこで、今回は、自分が何故そのようなことをするに至ったのかを(備忘録も兼ねて)簡単に記しておこうと思います。
簡単に要約すると、
今の時代、自分の意見くらい発信できるようにならないとやってけないよね。
かつ、その発信内容が自分の好きなことだったら幸せだよね。
だからより楽しく生きるためにもひとまず好きなことを発信することから始めてみよう。
という感じです。
例えば、最近読んだ本
『最強の生産性革命 時代遅れのルールに縛られない38の教訓』 - ムーギー・キム
『「自分」を仕事にする生き方』 - はあちゅう
『お金2.0 新しい経済のルールと生き方』 - 佐藤航陽
の中では全ての本で、
「これからの時代は好きなことを仕事にできる人がより豊かになる時代になる」
って書いてあるわけですよ。全ての本で。
(どれもとても刺激的な内容になっているので時間があれば是非読んでみてください!おすすめ。)
かつての、サラリーマンとして好きでもない仕事を我慢して、その我慢の対価として給料をもらうというライフスタイルではなく、好きなことをしているうちにそれが仕事になって、、、という生き方がインターネットの普及前より格段に現実的になってきたことがこの潮流の大きな要因だと個人的には思っています。
つまり、今まではテクノロジーが発展していなかったため、不特定多数に向けて自分の意見を発信する手段がなかった。それを持っている人はマスメディアの中心にいた一握りの政治家や有名人、起業家たちだった。そのために一般の人はそれら権威の下でその秩序の下で働くことでしかお金という対価を得る手段がなかった。
しかし、SNSの普及などによってどんな人でも簡単に不特定多数の人に向けて自分の意見やアイデア、信念などを発信できるようになったことで、従来のマスと一般の垣根が破壊され、誰もがコミュニティーを形成して主役になれる時代が到来した。
このような変化が日々刻々と起こっている中で、果たして自分は改めてどのような人生を送りたいのか?社会にどのような影響を及ぼしたいのか?という問いを常に立てて自問自答するようになりました。
まだ答えはわかっていません。
しかし、一つだけ明確にわかっていることは、
「どんなに考えたって考えているだけでは絶対にわかるようにならない」ことです。
だからこそ、自分が好きなことを発信しようと思い、最近は色々なことをブログに書いて伝えていこうと思っている次第です。
今までの生活通り、何も発信せずに他人の投稿やニュース記事を見るだけの使い方も全然良いとは思いますが、
「それでは何も変わらないし、だったらせっかくだから発信してみよう。誰か1人でも多くの人に良い影響を与えられたらいいな。」と思って(更新頻度少ないですが)続けています。
これで何が変わるわけでもないとは思いますが、少しは何かが変わる気がしてはいます。
ちなみに、自問自答した結果、僕の好きなこと(時間があったら思わずやってしまうこと)は今のところ、
「日々抱いている疑問から新しい知識を得て新しい考察をだすこと」
でした。
知的好奇心が旺盛なのか、ただのロマンチストなのかはよくわかりませんが、色んなことに興味があります。とりわけ、「あらゆる現象に共通している本質は何か?」と考えるのがとても好きです。
例えば考えているテーマとしては
・人間の本質は何か
・人間の幸せとは何か
・脳の構造
・芸術とイノベーションの関係性
・歴史の構造を紐解く
・テクノロジーによる社会の変化
・宗教
・仮想通貨とブロックチェーン
などがあり、発信したいネタもたくさんあるのでこれからも時間を見つけては考えまとめていきたいと思っています。(こういうのに興味がある人は是非会ってお話ししてみたいです)
そして、以前このブログを開設した際に書きましたが一応ブログには目的がありまして。
世の中の誰もが、自分らしく人生を送ることのできる社会を実現すること
直近では、Facebook CEO マーク・ザッカーバーグ氏が、"世界中の誰しもが「目的感」を持った社会を実現させたい。"そういった言葉をハーバードでのスピーチで語っています。
世の中には解決すべき問題点が至る所にあると思います。政治、経済、環境、教育...数え始めたらキリがありません。
人が皆、幸せに生きていくことが出来れば良いですが現状はそうはなっていない気がします。それは社会制度の問題かもしれませんし自分自身の心の問題かもしれません。
しかし、そこで見て見ぬ振りをするのではなく、私たちは、それを認識し、一つでも多くの問題について考え、行動していくべきだと思っています。
このブログでは、そんな社会や自己の問題を考えるきっかけを、皆さんに提供し、何か目的を持って生き生きした人生を送れる人が1人でも増えたらいいなと思っています。
コンパスも大事だけどその前に
なんだろう。この感じ
昨年末からこの感じが続いています。
何かやりたいんだけど何もやる気が出ない
やりたいことはたくさんあります。例えば
・社会への疑問を題材としたドキュメンタリー映像の作成
・
・
・…
ほぼねえじゃん!!!!
意外と文字に起こしてみたらやりたいことなかったみたいです。そりゃあ何もやる気は出ないはず。
僕はたった今まで、
「思ってることと実際は違っていた」病にかかっていたわけです。幻想でも見ていたんですかね。
でもこういったことって日常よくあると思います。皆さんが気がついていないだけで。
要は(極論になりますが)、普段、人間ほとんど頭使ってないってことなのかなと思います。ちょっと頭使って考えればすぐ分かるのに、一向に頭を使おうとしない。
これがかなりの大問題
昨年末に話題となったウーマンラッシュアワー村本のネタ。「お前たちのことだ!」
そうです。お前たちのことです。何も考えずにのんきに生きてきたあなたたち(ぼくたち)のことです。
こんなにダラダラと書いておいて、
言いたいことはたったの1つです。
もっと自分の頭使って!!!!
そしてもっと自分の意見を持って。
一緒に頑張りましょう。
「なんか〇〇じゃね」 人生のコンパス
「なんか〇〇じゃね」
この感覚って、これからを生きて行く上でものすごく大事な気がしています。
その感覚にどれだけ忠実に従えるか、それが個人の成功と幸福感を決める大きな変数になっていくのではないかと個人的には思っています。
例えばプラスの感覚で言えば
「なんか面白そうじゃね」
「なんかカッコよくね」
「なんか分かんないけどワクワクしね」
など
マイナスの感覚で言えば
「なんかつまんなくね」
「なんかカッコ悪くね/ダサくね」
「なんか分かんないけど気にくわない」
などです。
ここで重要なのが「なんか」という表現です。
僕は、「直感合理的正当性説」(自分で考えた言葉なのでググってもでてこないです)を信じているのですが、少しその話をしようと思います。以下の話は僕の完全なる自論ですのでそもそもこれが科学的に正しいのかどうかは全くわかりません。(そのような論文等を知っている方がいれば教えていただけると嬉しいです)
「直感合理的正当性説」とは、簡単に言うと
人間の直感は”その人のなかでは”合理的かつ正当性のあるものである
という説です。
私たちは生きている間、数え切れないほど膨大な量の情報を得ています。その情報を脳が何かしらのアルゴリズムを用いて瞬時に処理をし、「直感」という形で私たちに感覚を提供してくれているとします。
そうなると、普段私たちが感じている
「なんかカッコよくね」
「なんか面白くね」といったものはそのアルゴリズム処理後のものになります。
AIが結論は出すけどそれに至るまでの背景や理由は教えてくれないことと、上記の「直感」の例の頭にある「なんか」という表現は類似したものだと思います。
つまり、直感とはその人が生きている間に五感をフルに使って得た全ての情報の蓄積から、自分にとって最適な解を導き出したもの。とも言えるのかもしれません。
が、その「なんか」を構成する理由はなかなか出てきません。が、その直感は自分の中では正当性のあるものだと信じても良いものなのではないでしょうか
何かに悩んだり迷っているとき、
「悩んでるけど、自分の中では答えは分かっているんだろうな。」という経験は誰しもあると思います。多分それも、この直感の理屈でいう、最適な解としてすでに瞬時に答えが出ているからだと思います。アルゴリズム処理後の感覚なのでAIと同じく理由が分からないだけです
だとしたら、つべこべ考えずに
「なんか面白そう」
「なんかカッコよさそう」
「なんかワクワクしてくる」
ことを、その直感を、信じて突き進んで行くことが大事なんじゃないかと思います。
「なんか面白そう」なことをしてみて、「なんかつまんなく」なったら辞めればいい。「なんかワクワクする」ことをしてみて「なんか飽きてきた」ら違うことをすればいい。
それをどんどん繰り返していくこと
脳の感覚をアップデートしていくことが、特にこれからの時代を生きていく私たちに必要なことなのではないかと思っています。
心の豊かさとは
こんにちは
今日は、"心の豊かさ"について僕の考えを書いていこうと思います。
先日は、幸せについて考えを膨らませました。その中で僕は、
少し自分の意識を変えるだけで、自分の今の状況を、幸せだ、と解釈できるようになれるのではないか、そのためには、心の豊かさを得るといい
というような旨の発信をしました
では、"心の豊かさ"とは何でしょうか。
どんなことが起きても笑顔で許容することでしょうか、誰に対してもオープンな気持ちで接することでしょうか
僕自身は、"心の豊かさ"とは
「自分自身の意志で自分の人生を決定する力」だと思っています
言い換えると
「自分自身の意志で一つ一つの行動を選択でき、かつその選択に対して自分自身が責任を負っていることを許容すること」です
すべての行動に自分で責任を取ることができること、それが大事なのだと思います。そうすれば、人生のサーブ権を持った人生を歩むことができるのではないでしょうか。
やりたくないことをやっているのは、あなたの選択です。他人が自分にそうさせたのではありません。すべての行動は、自身の選択の結果です。人に流されずに、しっかりとした理由をもって一つ一つの選択をするとよいと思います。